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あと一歩…もう一歩…

何苦礎(なにくそ)とは「苦しいことも何事もあなたの礎になる」という意味らしいが、本当にそう思う。周りと比較することもあるだろうけど、結局は今いるところでどれだけ力を尽くすかではないかと思って書いた回想。

羽生結弦さんが離婚というニュースを見て思った。

僕も離婚した。

彼は結婚から105日だったというが、体感時間はきっと僕と同じ11年ほどだったのだろう。

ふざけた話はさておき、僕自身は1年とちょっと経った今になってようやく心の整理が付いたので、このどさくさに紛れて情報を放り込んでしまおうと思う。

別に僕は公人でもないし有名人でもないので第三者への説明も必要なければ第三者から何を言われる筋合いもない。

しかしながら思ったことだけは死ぬ時思い出せるように記しておきたい。ただそう思った末の行動がこの12年ぶりの更新となった。

 

一応10年以上も結婚生活を送り、その末手仕舞いした側の人間として思うこと。

それは結婚して夫婦となった以上「お互いの成長」というものに寄り添い、そこに楽しみや幸せを感じ続けていかなければ、その関係性は続かないんだということ。

きっとそうなれば幸せなんだろうと思っていたが、僕の場合は出産や育児という過程を経て成長する相手の成長曲線に僕が大きく遅れをとってしまったことが根本的原因だと思う。結婚当初に抱いてもらった期待や希望に添えなかったことは、悔やんでも悔やみきれないが、もはや悔やんでも仕方ない。

 

これから思春期を迎える2人の子に関しては「寂しい思いをさせて申し訳ない」などと言うのが相場であろうが、僕はそうは思っていない。

それは半分余計なお世話であり、彼ら2人にとって僕が父親であるということは消そうと思っても消えない記憶であり、事実である以上、その記憶の片隅にでも僕がどういう父親であったか、それが気になる存在であるのであれば、将来何かしらの形で僕を探すだろう。それ以上にその時僕がどういう(≒何をしている)「人間」であるかということが全てを語ることになると思う。

 

そして会社。これが何よりも一番、何をどう足掻いても自分の思ったように行かない。

こんなものやらなきゃ良かったと週に一回は思うし、やめてやろうかなとも月に一回は思う。

元々商売が好きなわけではない。

だけどそれ以上に、自由を愛するが故のこの生き様である。

ただここだけはお分かり頂きたいのはこの「自由」。

日本語で書くといかにもバ●っぽくなってしまっているが僕が表現したいのはFreedomではなくLiberal(≒Liberty)。

漫然と存在している自由を欲しているわけでも愛しているわけでもない。僕はピーターパンでもなければ流浪人やヒッピーのような生き方に憧れているわけでもない。

社会的、政治的な制約がない自由への愛が強いだけであり、それを手に入れるための努力や戦いは厭わないというだけである。

そういう意味では多くの人の助けや協力あっての今日、気づけば会社も13期目をあと数ヶ月で走り抜けたことになる。

僕は自分で自分のことを社長だと表記したことも表現したこともない。

それぐらい自分のことを商売人とも経営者とも思ったことがない。

であるが故に創業から今まで、今はいる人間もいない人間も、全員に迷惑をかけている自負はある。着いて来てくれてる人にも、見限って離れて行った人にも感謝はあろうと怒りはない。各々が至極当然の判断をしたのだろう。

 

プライベートな交友関係も随分変わった。

住む場所や職場、家庭環境、交際ステータス、事業の好調不調などで近くなる人もいれば遠のく人もいる。それはいい。

自分のいないところであること無いこと言う者、あからさまな誹謗中傷を行う者、それが彼らの日常の楽しみ、酒の肴になるのであればそれも良い。

そんなことよりこの10年少しの間で起こった一番の心境変化を綴りたかった。

それはもう、自分には能力も才能もないということがようやく分かったということ。

ただし、思ってもなかったが運が結構強かった。

そんな自分が、自分自身で「何者かになろう」としたことが全て、終わりの始まりだったのだと思う。これが僕の回顧録

こうして晴れて「スタートアップ」として始まった弊社も、今や単なる「中小企業」となりました。なので僕もブログのタイトルを変えました。

 

これからはそうじゃない。

どんなときも僕のことを信じてくれた人、僕に賭けてくれた人、そして僕がどんな状況でもいつも変わらず一緒にいてくれた人のために僕の運を使っていこう。

そしてこれから出会う、能力や才能ある若者に、自分ができることを探していこう。

漠然とした世界や世間や大勢に対してではなく、目の前の1人のために自分ができることをしよう。

最後は自分の「場所」と「作品」を遺すことができれば僕はそれでいい。

僕自身の限界を身をもって体感したからこそ、何の後悔もなく次なる章に進むことができたとさえ思う。

 

【信念】とは「今の心を言える人」と書くという教えが昔から僕は好きだ。

タイトルではないが「なにくそ!!」ではなく「なにくそ。」というのが今の僕の感情。

バルス!!!!!!!」ではなく、実際は「バルス。」であるように。

本気の思いは、願いを現実にすると信じているし、祈りというものは常にどこかで生きていると思う。僕は特にこれといった宗派ではないけど、こればかりは信仰のあるなし関係なく。

 

最後に。

身辺整理から1年以上が経った今、ようやく自分も次に進むことができると感じています。このブログを読んで初めて知ったという方、驚かせてしまっていたらすみません。

僕と会っていたのに今これ見て初めて知ったという方、僕のワガママで何事もなかったかのように過ごしててすみません。

何処かしらでその噂を聞きつけて、一生懸命、話のネタに僕のことを吹聴して回ってくれてるそこのあなた、説明の手間省いてくれてありがとう。仕事に支障がない限りは怒ったりしないのでしばしご歓談ください。

僕がMissingLink社を設立した理由。

Missing-link(失われた環/鎖)…古生物学における進化の途上に位置する発見されていない中間形の化石のこと。学術的には「未発見の中間型化石」とも呼ばれている。

小学生だった1999年、日本にも若い起業家たちが活躍する大きなきっかけとなった渋谷の「ビットバレー構想」が提唱された。
それはインターネットという新産業を選んだ起業家たちによる同時多発的なチャレンジの起爆剤となり、それなくして今の日本の活力はなかったとさえ思える新しい時代の訪れだったとさえ思う。
その様子を当時北九州は小倉の地から指を加えてみていた僕は、パソコンというものを買う。なにができるのかも知らずに。
あの日を機に、僕の人生は思ってもいない方向に転がり始めるなんて知りもせず…

友人との遊びを一切断ち切り、パソコンの前で大半の時間を過ごす日々もそろそろ2年になろうかというタイミングで06から始まるみたこともない番号から電話がかかる。電話口では社名と担当者名が告げられ、開口一番「おたくのシステムを売ってもらえませんか?」

それからおよそ半年後。2007年1月。
業界を震撼させる「ライブドア事件」が勃発。
堀江さんの活躍をみながらいつも、「この業界では若くても、大人と対等に仕事ができるんだ!」と胸を踊らせていただけに当時のショックは大きかった。
その頃インターネットの本場アメリカでは、youtubeやクレイグスリスト、facebooktwitterなど、ベンチャー企業が次々と活躍。
そんな中僕は、完全無視していた青春時代と人生の小休憩を欲して大学進学の判断をする。

同級生や先輩後輩たちと飲んで騒いで遊び、久しぶりにテニスも沢山やった。
お誘いも頂き、ビジネスも結局やることになった。
毎日がそれなりに楽しく、そこそこの思い出もできたけど、「充足感」という意味では不十分だった。
そんな中、東京で出来た友人からプログラミングコンテストに誘ってもらった。

そこにはインターネット分野で一旗揚げようと挑戦する同世代の人たちが沢山いた。
最後に見た活気あるこの業界の姿がライブドア事件だった僕にとっては、あのときにタイムスリップしたのかと勘違いしてしまうほどだった。
出場したコンテストでチームは優勝し、興奮状態で京都へ戻り、結果として僕は大学を辞めた。
根拠はないが自身だけはあった。

次が最後になるかもしれないこの業界の波に次こそメインプレイヤーで乗りたい!
それ以上でも以下でもない。
それが、弊社設立のきっかけ。

具体的なサービス案や事業計画なんてなにもなかった。
震災直後ということもあり、変に男気スイッチが入ったことも一因なのかもしれない。 
だけどもしあのとき冷静な状態で思考が働いていたら、結婚を控えたあのタイミングでの起業はなかったと思う。

「世界中のリアルとウェブの間に潜むMissingLinkに、人々の日常を少しだけ便利にするサービス、ソリューションで挑戦しよう。」
僕らが志したのは、世界を少しだけ便利にすること。

MissingLink株式会社
http://www.missinglink.co.jp/